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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2018年08月27日

《特集》明治維新150年 長州五傑日本近代化への道

明治維新150年

長州五傑日本近代化への道


幕末の混迷が続く1863年、長州藩は、
5人の若い藩士を横浜港から密かに英国へ派遣。
国禁を破って命懸けで密航し、日本人で初めて
ロンドン大学に留学を果たした5人は、
欧米の近代文明を積極的に学び、帰国後、
日本の近代化の舵取りとしてそれぞれの道で顕著な功績を残した。
「長州五傑(ファイブ)」から、明治維新の痕跡をたどる旅へ―。

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写真提供:萩博物館

~長州五傑~

造幣の父 遠藤謹助(えんどう・きんすけ) (写真左上)
維新後は造幣寮に仕官。大蔵省を経て、1881年に造幣局長となる。以降、退官するまで、局長として洋式新貨幣の製造に努めた。現在まで続く大阪・造幣局の「桜の通り抜け」は、彼の発案によるもの。

鉄道の父 井上勝(いのうえ・まさる) (写真中央上)
ロンドンでは鉱山学と鉄道技術を習得し、帰国後、新橋~横浜、大阪~神戸など最初期の鉄道建設に尽力。初代鉄道局長就任後は、東海道ルートで東京~京都間の鉄道を開通させた(現在の東海道本線)。

内閣の父 伊藤博文(いとう・ひろぶみ) (写真右上)
吉田松陰の松下村塾に学ぶ。尊皇攘夷運動に関わる一方、井上馨の薦めで海外渡航を決意。留学先で国力の差を痛感し開国論に転じた。帰国後は政府要職を歴任し、1885年に初代内閣総理大臣に就任。

外交の父 井上馨(いのうえ かおる) (写真左下)
維新後の新政府では造幣頭や大蔵大輔(次官)の要職を歴任。1879年からは外務卿として条約改正に尽力した。後の第一次伊藤博文内閣では初代外務大臣に就任し、不平等条約の改正に奔走した。

工学の父 山尾庸三(やまお・ようぞう) (写真右下)
ロンドン時代に造船技術を習得し、1868年帰国。工部省設置と工学校開設を政府に訴え、後に工部大輔、工部卿を歴任。工学会(現日本工学会)会長にも就任し、長きにわたり工学分野の発展に寄与した。

 

ロンドン中心部にあるロンドン大学(UCL)中庭に建てられた石碑に、24名の日本人の名が刻まれている。1863年に5人、1865年に19人の日本人がこの地を訪れ、帰国後に近代日本の礎を築いた功績を讃えたものである。なかでも最初の5人――即ち藩命を受けて密航してまで英国に留学した伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助の5人は長州五傑(The choshu5 )と呼ばれ、日本の近代化において先駆的な功績を残し、それぞれ内閣、外交、工学、鉄道、造幣の各分野で父と称されている。

5人全員が天保年間の生まれで、生まれ育った環境はまさに黒船来航(最年長の井上馨は当時18歳)をきっかけとした、欧米の列強に対する危機感が高まっていた時代。徳川幕府はもとより諸国諸藩が衝撃を受け、開国派と攘夷派に分かれ、日本中が大きく揺らいでいた頃だ。

ペリー来航翌年(1854年)には日米和親条約締結で開国が実現し、1858年の日米修好通商条約締結以降は、欧米諸国との間で貿易も開始された。同時に列強の脅威に対する機運も高まり、軍事力の強化が急務との認識のもと、1862年に海軍技術習得を主目的に、幕府による海外留学生の派遣が開始されたのである。

一方、勅許を得ずに通商条約を結んだ幕府と朝廷が対立。尊王攘夷運動はますます盛んになり、朝廷と組んだ長州藩などは馬関海峡を封鎖し、アメリカ、フランス、オランダ艦船を砲撃するが(下関事件)、これが後の馬関(下関)戦争に発展することになる。

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▲下関市にある火の山公園から見た関門海峡

攘夷の嵐が吹き荒れる中でも幕府による海外派遣は続いていたが、それ以外の海外渡航は未だ禁止の時代であった。幕府同様に海外の知識や技術の必要性を強く感じていた諸藩の中でも、特にその地理的環境から海軍力を重視していた長州藩にとっては、とりわけその思いは強く、ついには禁を破ってまでも海外派遣を実行したのである。

長州藩はもともと攘夷派であり、実際に馬関海峡で外国船を砲撃するなど攘夷を実行しているにもかかわらず、なぜ留学生を送り出したのか。

その源には、かつて日米修好通商条約を無勅許調印として痛烈に批判した、吉田松陰の思想があった。自身のアメリカ密航失敗が物語るように、松蔭は単純に攘夷を叫んだわけではなく、むしろ外国の優れた知識や技術を取り入れ、国力を高める必要性を早くから主張していた。つまり近い将来は開国し、欧米と交流することを視野に入れていたのである。松蔭のこの思想が基となり、長州藩は、新しい時代に対応する優れた人材を養成するために、密航してまでも海外に留学生を派遣するに至ったのだ。

藩命を受けて海外派遣された5人であったが、密航ともなれば多くの困難が立ちはだかった。資金の調達はもちろん、家族への連座に対する警戒、さらには航海中の処遇による苦痛等、彼らが被った肉体的・精神的苦痛は相当なもので、命懸けであったことは想像に難くない。途中寄港した上海では、西洋文化の繁栄と、多くの外国軍艦や蒸気船を目の当たりにして衝撃を受け、攘夷の無謀さを痛感するに至り、やがては開国派へと考えを変えていくことになる。

4カ月以上にわたる大航海を経てイギリスに渡った5人は、密航を手助けしたジャーディン・マセソン商会の仲介で、ロンドン大学に学ぶことになった。最新の海軍術を習得することが目的だった彼らが現地で目にしたのは、圧倒的なイギリスの国力であった。高層建築に蒸気機関車、銀行や博物館、工場など、まさに産業革命発祥の地、「大英帝国」と称されるにふさわしいもので、目に映るものすべてが驚異であり、脅威でもあったのだ。

あらためて攘夷が無謀だと確信した彼らは、海軍術だけではなく、あらゆる先進的な技術を取り入れることこそが、日本が欧米に対抗するために必要不可欠なことであると悟ったのである。攘夷のために欧米の技術を習得することが目的であったはずの彼らが、政治や経済、文化など、幅広い分野の近代化が必要だと学んだこが、後の日本近代化に大きな足跡を残すことに繋がっていく。
(文=朝日旅行 旅と文化研究会)

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▲萩市・伊藤博文旧宅

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▲防府市・公爵毛利家の本邸

 


馬関(下関)戦争勃発

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▲関門海峡に面したみもすそ川公園の長州砲(レプリカ)

攘夷運動の最中、1863年に起きた下関事件に起因して、連合国艦隊が近く長州を砲撃するとの報を耳にした井上馨と伊藤博文は、故国を憂いわずか半年で帰国を決意。およそ2カ月かけて横浜に到着した二人は、イギリス領事より連合国による下関攻撃の計画を聞かされることになる。

故国の一大事と捉えた二人は、長州に帰って攘夷論を一変させると訴え、停戦講和を駐日イギリス公使に懇願する。そして連合国が対応を協議する間、数日間の待機を命ぜられた後、藩主宛ての公使の書簡を携えて長州に向かうことになった。

長州に戻った二人は、藩主を説得しようとするが、外国船には徹底抗戦するとの方針は変わることなく、西洋事情を話しても嘲笑されて聞き入れられることはなかった。そのため再三にわたってイギリス艦に赴き、攻撃猶予を談判するも実ることなく、ついには猶予期限が切れ、連合国の艦隊が下関を砲撃するに至ったのである。

甚大な被害を被った長州藩は武力による攘夷をあきらめ、積極的に海外技術を取り入れて近代化を進めることになった。そして1866年、坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介で、同様に近代化に積極的であった薩摩藩と薩長同盟を結成、倒幕への道を歩むことになる。

 

明治維新150年特別企画

磯田道史氏 特別講演会ツアー in 下関

幕末から明治へ、時代が大きく動いた節目の年から150年。維新の道を切り開いた長州・山口県をめぐる、新潮ドキュメント賞を受賞し、2010年に映画化された『武士の家計簿』でもおなじみ、磯田道史氏による特別講演会付きのツアーをご用意しました。「幕末維新回廊」として期間限定で特別公開される史料、偉人も歩んだ歴史街道、地元の味や温泉など、山口の魅力をふんだんに盛り込みました。紅葉始まる秋の休日をぜひ、山口県でお過ごしください。

磯田道史氏 特別講演会ツアーはこちらより

首都圏発 / 関西発


※上記ツアーは2018年8月発行「総合パンフレット」に掲載しています。

パンフレットをご請求ください。(デジタルパンフレットもご覧いただけます)

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投稿:大阪発国内旅行担当