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美術史家 黒江 光彦
このサブタイトルが、ヨーロッパに親しい皆様には「ナポリを見て死ね」と同じ言い方であることは、お分かりのはずである。
美術館で言えば「ルーヴル」が「ナポリ」に相当するかもしれない。この美術館に陳列された作品ならば「世界の至宝」間違いないと言えるとすれば、ゲントの「神秘の仔羊の祭壇画」も一度ルーヴルに並べられたことがある。ナポレオン軍がベルギーに侵攻したとき、1815年戦利品としてゲントからパリまで運ばれルーヴル宮で無料公開された。
こうした御難は傑作ならではの運命であるが、その名声は古くからヨーロッパ1円に轟きわたっていた。例えばドイツからはデューラーが1520―21年のネーデルラント紀行の折に見に来ている。いま収められている保存のためのケースの前でではなくて、完成当初から飾られていたフェイト礼拝堂の祭壇の上に大きく翼を広げた祭壇画を仰ぎ見たのであった。サン・バヴォン大聖堂の周歩廊の南側の一番手前のこの礼拝堂では、祭壇に向かって右側の南窓から光が差し込んでいて、ケースに移される前までは、デューラーも私たちも、祭壇画の中に描かれる全てのモティーフの右側が光っているので、あたかも窓の光が照らしているかのような錯覚をおぼえたものであった。
この祭壇画は、フーベルト・ファン・アイクが着手して完成する前に歿したために、ヤン・ファン・アイクが引き継ぎ、1432年に完成した。
ところで、注文を受けた画家は飾るべき礼拝堂を下見して、大きさを決めただけではなく、右側に窓があることを確認し、画中の採光も右光線に決めたとしか考えられない。光には敏感な画家であった。
祭壇画の翼扉を閉じた状態で、二人の聖ヨハネの彫刻像と生き写しの寄進者夫妻の姿の上の段に描かれた「聖告」の場面における不思議な影に注目されたい。マリアや大天使ガブリエルの影が床や壁に描かれるのは当然にしても、その場面のパネルを収める枠縁三本の投影が床の上に描かれているのは、祭壇画全体がまさに礼拝堂そのものの光源によって照らされているのだぞと言わんばかりの仕掛け・トリックだと思わざるを得ない。この場面は、引き継いだヤンが分担したとされるのだが、その視線はリアルだ。
フーベルトとヤンは、年の離れた兄弟ということになっている。全体の構想は、だから兄の仕事であり、祭壇を開いたときに見える天帝としてのキリストや聖母マリアや洗礼者聖ヨハネの大像や、中央下段パネルの祭壇の上の「神秘の仔羊」を囲む諸人の構成や俯瞰的な描出は、兄の手になるものとされる。
ところが上段両端のアダムとエヴァは、現に祭壇の前に立って見上げたような捉え方で描かれている。何よりの証拠は、アダムの右足のつま先は祭壇の枠縁からをはみ出して足の裏側がのぞいて見えることだ。この現場感覚が俯瞰的な宗教的図像とは大きく違う。新しい世代の様式・視覚というべきであり、弟の手と言えるという論拠にもなろう。
今はもう「現場」には置かれていないが、礼拝堂にあったことを頭に思い描いて、あの細密な画像の数々をご覧になっていただきたい。この作品は、ゲント詣で、当初から収められていた大聖堂の中でこそ鑑賞されなければならない。
同行講師:黒江 光彦氏(くろえみつひこ)
美術史家、絵画修復家。
ステンド・グラスの研究においては日本の第一人者的存在。ベルギーでゲントの祭壇画「神秘の仔羊」の修復にあたった王立文化財研究所で絵画修復技術を磨く。「フランス中世美術の旅」など著書多数。ファン・アイクやゲントの祭壇画、ステンド・グラスに関する訳書多数。フェルメール、ロートレックなどに関する著作も多い。
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