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旅なかま 9月号

ギリシアへの招待
ギリシアへの招待
ギリシアへの招待


 神々と英雄の物語、ことに人間の喜びと悲しみの種々相を壮大な規模で歌ったホメロスについて、次のような逸話が伝わっています。この古代ギリシア最大の叙事詩人に向って、ある人が「人生で一番よいことは何かしと尋ねました。ホメロスは「それは生まれなかったこと、生まれたらできるだけ早く死ぬことだ」と答えたというのです。この言葉は、ギリシア人の琴線に触れるところがあったのか、歴史家ヘロドトスも文脈で伝えていますし、悲劇詩人ソフォクレスも、遺作『コロノスのオイデプス』の中で引用しています。ニーチェも有名な『悲劇の誕生』で、この言葉をディオニュソス神の従者シレノスの知恵として紹介し、これこそギリシア人の根源的な存在感覚だととらえました。このような認識があってこそ、ギリシア人はあの明るいオリュンポスの神々を創造したのだ、と。
 このニーチェの受けとり方を裏書きするかのように、ホメロスは先の問いに対して、さらに次のように答えたといいます。「そして二番目によいことは、酒と食物に楽人の歌がそえられた宴である」と。
 最初の答えは『イリアス』にも『オデュッセイア』にも、文字通りには見出されませんが、特に『イリアス』全編に通奏低音のように響いている「人間は死すべきもの」の悲劇的感覚を極端に主題化したものかも知れません。『イリアス』はしかし、単純に人生の諦観を勧める詩ではありません。「人間は死すべきもの」の嘆きは、そのままに人間であることのすばらしさを、特に不死の神々との対比で浮き彫りにしている、と感じられるからです。
 ホメロスの第二の答えは、それを拡大したような言葉が『オデュッセイア』の中に見出されます。オデュッセウスはトロイア戦争終結後さらに十年漂泊生活を強いられますが、その最後の一齣で、ファイエケス人の国という一種のユートピアに漂着し、アルキノオス王の歓待に与ったその宴の席で、次のように言っています。
 万民に優れて誉れ高きアルキノオス王よ、ここなる楽人のごとく、声の美しさは神にも似た歌い手を聞くのは、確かに結構なことです。民の間に愉楽の気が満ち、宴に与る客たちは屋敷の内に席を列ねて、楽人の歌に耳を傾け、傍らの食卓にはパンと肉とが山と盛られ、酌人は混酒器から美酒を酌んで席を廻り、酒盃に酒を注ぐ―歓を尽くすには、これに勝ものはありますまい、これこそ愉楽の極致とわたしも思います。
(松平 千秋 訳)

 私は過去二十数年の間に、五十回以上にわたって、平均十五人位の人々をギリシア各地に案内してきました。(その副産物とでも称せられるのが、拙著『ギリシア紀行―歴史・宗教・文学―』(岩波現代文庫、2001年)です。)私の旅でいつも心掛がけてきたことは、まず第一にギリシア神話・文学に描き出された古代ギリシア人の生き方、考え方は何だったのか、それを現地で旅の仲間とともに確認しあうことです。それを生み出し、培った風土の息吹きにできるだけ触れてみること―オリュンピアにしろ、デルフォイにしろ、エピダウロスにしろ、ギリシアの静寂に満ちた遺跡の大部分はかつての聖地であった意味を、今改めて驚きをもって考えさせられています。私たち現代人にとって、古代ギリシア宗教のリアリティに直接触れることはもはや不可能ですが、今も遺跡に漂っているある神さびた雰囲気に身を浸すことで、ギリシア精神に顕著に感得される、生きる喜びを渇えた、しかも静謐なる美、卓越せる単純さへの感覚は、ある程度私たちの心にも共鳴しうるものとなるのではないでしょうか。
 私の旅で大きな比重を占めているもの、その第二は、ホテルのツーリスト・メニューではなく、本物のギリシア料理を旅の仲間とともに楽しむことです。ほんとうに「ギリシアはおいしい」のです。私は決してグルメ嗜好ではありませんが、「死すべき人間」にとって、生きる喜びが最もリアルに実現する場の少なくともその一つが、オデュッセウスも言うごとく、宴をともにする場である、と思うのです。これこそ旅の大きな楽しみではないでしょうか。



川島 重成 川島 重成氏(かわしま しげなり)

大妻女子大学教授
国際基督教大学名誉教授

1938年京都生まれ。国際基督教大学卒業。東京大学大学院修了。国際基督教大学教授を経て、現職。著者に『「イーリアス」ギリシア英雄叙事詩の世界』、『ギリシア悲劇の人間理解』、『「オイディプース王」を読む』、『ギリシア悲劇―神々と人間、愛と死』、『ギリシア紀行』。訳書にエウリピデス『ヒッポリュトス』などがある。


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