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旅なかま 11・12月号

私の成吉思汗物語
私の成吉思汗物語
私の成吉思汗物語

  1990年から成吉思汗の墓を探すというプロジェクトに参加した。私の成吉思汗物語の始まりであった。4年間をかけ、オノン・ヘルレン両上流域を走り回り、12〜13世紀における歴史のかけらを拾い集めて歩いた。しかし、そう簡単に見つかるはずはなかった。
 そのような時に、モンゴル版『元朝秘史』を手に入れた。その巻頭に、女真字碑文の写真が掲載され、「ヘンテイ県ビンデルの岩に刻んだ碑文」と説明があった。女真字は金代(1119)に作られた文字で、成吉思汗生存期に併行して利用された。そこで、碑文を探し出せば、何か手がかりが得られるかもしれない。オノン上流ビンデル地区は、成吉思汗の生誕地とする意見もあるので、念入りに調べたが、何も探し出すことはできなかった。
 偶然、言語学者シャグダルスレン博士がその地をかって訪れたことがあるのを知り、同道をお願いし、1991年10月に白石典之博士とその地に向かった。そこは、ヘンテイ県ウンドルハーン市から東南20キロのバヤンホタク郡セルベンハールガで、山々が壁のように取り囲んでいた。セルベンハールガとは「ゴツゴツとした門」という意味である。巨岩が積み重なり、その一つに9行140字で浅く刻まれた女真字の碑文があった。第1行目は「大金国尚書右丞」、8行目は「・・七年六月日」と何とか読めた。私は、心の中で「やった!」と叫んだ。作成年次と人名が分かりそうだと感じたからだ。突然、
運転手のダンビさんが、ここにも文字があるよと私たちを呼んだ。女真字碑文から東へ20メートルほど離れた岩に、なんと漢字で記された9行86字の新たな碑文があった。その2行目に「宗室襄」の人名、8行目に「明昌七年六月日」とはっきり見える。飛び上がるほど嬉しかった。女真字と漢文の両碑文はほぼ同様の内容を記したものらしい。
 明昌7(1196)年、皇帝の命を受け、完顔襄は金軍を率い、タタル部をオルズ河に討ち、勝利を収めた。それを記念して、「九峰に刻んだ」と『金史』に記述されている。九峰とは間違いなくセルベンハールガである。『元朝秘史』によれば、この時、金軍を援助して武勲を立てた成吉思汗は、「百夫長」の官位を貰い、後に「招討」に命ぜられる。「招討」とは、辺疆防衛の長官と解釈される高官という。私の頭に、金国皇族から任官を許され、無限の未来に耀く35歳の成吉思汗が浮かんできた。それは成吉思汗が、地方の族長から世界史の舞台へ躍り出たまさにその瞬間であった。そして10年後(1206)に、「大モンゴル帝国」を建国する。しかし、残念ながら両碑文ともに成吉思汗の文字は無かった。
 老人の成吉思汗物語はまだまだ続いている。2001年から、ヘルレン河のアウラガ遺跡(成吉思汗宮殿址)をモンゴル国と共同して発掘調査を始めた。おそらくこの調査終了後には、もう少しはっきりとした成吉思汗の実像が見えてくるかも知れない。
万里遐方獲此楽(故郷を隔てること万里の遠方にもこんな楽しみがある)
 不妨終老在天涯(ここで一生を終えても構わないという気になる)
 (耶律楚材「西域蒲華城贈蒲察元帥」抜萃・岩村忍訳)






加藤 晋平

加藤 晋平氏(かとう しんぺい)

略歴:1961年、東京大学大学院博士課程。筑波大学人文学類教授、千葉大学教授、
國學院大学教授を経て2001年より日本・モンゴル合同調査団総隊長。

主な著書・論文:『カラコルム古代都市(英文)』ユネスコ・北京事務所、
「モンゴル国アウラガ遺跡に見る焼飯儀礼」21COE考古学シリーズ、3.國學院大學など。


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