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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2018年11月22日

《特集》長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産をめぐる

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産をめぐる



写真:構成資産「頭ヶ島の集落」にある頭ヶ島天主堂(長崎県南松浦郡新上五島町)

 

キリスト教弾圧の世にありながら密かに信仰を続けた潜伏キリシタン達。
天草・島原や長崎、五島に残る多くの遺産を訪ね、彼らが命をかけて守ろうとした信仰の真髄に迫る旅。―信仰とは何か?厳しい弾圧を乗り越えた力とは?

 

潜伏キリシタンの思いと伝統をたどる


キリスト教の伝来と繁栄

大航海時代、ドイツやオランダでは宗教改革の嵐が吹き荒れ、地中海がイスラムの海と化していた頃、カトリック国であったスペインやポルトガルは新たな貿易と布教の地を求め、大海原へと船出した。1550年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが肥前国(長崎)の平戸に来航するが、時の日本は戦国時代。大名は鉄砲や火薬を持つ南蛮船との貿易を求め、民衆は辛く苦しい時代に救いを求めて、キリスト教は瞬く間に九州の地に広まった。教会だけではなく、豊後国(大分)にはコレジヨ(高等教育機関)や西洋病院が、島原にはセミナリヨ(修道士育成のための初等教育機関)などが次々と建てられ、大友氏によって新たに開かれた長崎の港には多くの南蛮船が出入りするようになっていた。

こうして華やかなキリスト教文化が花開いた港町・長崎は、日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げ、1582年には4人の少年が、約30年間の布教の成果を伝えるためヨーロッパに派遣され、時の教皇グレゴリウス
13世に謁見した。


写真:五島列島福江島の大瀬崎断崖(長崎県五島市)
激しい風や波に打ちひしがれて浸食された断崖絶壁が作り出す壮大な風景は圧巻

 

弾圧、そして沈黙


1587年、九州を平定した豊臣秀吉は「バテレン追放令」を出し、キリスト教宣教師に国外退去を命じた。その10年後には、京都や大阪で捕らえられた信者や宣教師26人が、長崎の西坂の丘まで1カ月かけて歩かされ、十字架に架けられて処刑されてしまう。これがキリスト教信仰を理由に処刑が行われた最初の事件となり、以降も厳しい取り締まりや弾圧は続けられた。禁制は江戸幕府にも引き継がれ、拷問はますます厳しさを増していく。1644年、ついに日本で最後の宣教師が殉教し、キリスト教にとって暗黒の時代がその後230年間に渡って続くことになる。そして、弾圧を忍び密かに信仰を続けていた信者達は、静かに潜伏していった。

 

信者発見〜その歴史的瞬間


時は流れ幕末の動乱のさなか、ついに二百十余年に及ぶ鎖国が解かれ、日本は世界にその扉を開くこととなった。日米修好通商条約によって本格的に貿易が始まると、長崎の港も開港され、居留する外国人は教会堂を建てていったのである。現在では国宝に指定されている大浦天主堂
もそのひとつで、当時では珍しい洋風建築が目を引く奇異な建物であった。近所の日本人が見物に訪れるようになると、宣教師のプティジャンは教会を開放し、見学者を招き入れていた。厳しい弾圧の地にあって、密かに信仰を続けている人がいるかもしれないと、かすかな期待を抱いてのことであった。


写真:大浦天主堂 「信徒発見」記念の碑

 

1865年3月のある日、15名ほどの日本人が大浦天主堂を訪ねてきた。プティジャンは彼らを招き入れ、祭壇に向かって祈り始めると、一人の女性が近寄り恐る恐るささやいた。

「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」
「サンタ・マリアの御像はどこ?」

彼らこそが、命をかけて信仰を続けていた潜伏キリシタン達だったのである。最後の宣教師が殉教してからすでに約220年、もはや失われていたと思われていたキリスト教信仰が、弾圧に耐えながらも密かに受け継がれていた事実に驚き、喜んだプティジャンは、仔細をヨーロッパに伝えた。「信徒発見」の奇跡的なニュースは、瞬く間に世界中に広まっていったのである。以後、長崎では、各地で次から次へと彼らの後に続き、信仰を告白していった。しかし、未だ禁教令が敷かれていた世にあっては、幕府や明治政府によって、一層厳しい迫害や弾圧を受けることになる。「浦上4番崩れ」や「五島崩れ」は、江戸時代から続く弾圧の中で最も悲惨と言えるものであった。


写真:出津教会堂(長崎県長崎市)
1882年、出津・黒崎地区に赴任したド・ロ神父が私財を投じて建てた。

 

キリスト教信仰の復活


これらの弾圧は欧米諸国に知られ、明治政府は国際世論の批判と圧力にさらされ、ついに1873年(明治6年)、キリシタン禁制の高札を撤去、キリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれた。それまで潜伏し、厳しい弾圧に耐えながら、命を懸けて祈りを捧げてきた人々にとり、堂々と信仰を告白できる喜びはいかばかりだっただろう。

この頃から、多くの外国人宣教師たちが潜伏キリシタン達の里へ赴き、布教、慈善活動を行うこととなった。訪れた土地は暮らしていくのもやっとな痩せた土地ばかりだったが、「自分たちの教会を」と願った信者たちは、もともと貧しい中、さらに食事を減らし、節約し、教会堂を建設していった。現在でも五島列島の島々や外海にまで、多くの教会堂が残るのはこのような経緯による。そして今も途絶えることなく、熱心な信者達による祈りが捧げられている。
(構成=朝日旅行 旅と文化研究会)


写真:大浦天主堂(長崎県長崎市)
幕末の開国後、1865年建立。日本に現存する最古のキリスト教建築物(国宝)。

長崎・五島列島 ―信徒の思いが息づく教会

花の御堂・頭ヶ島教会

五島列島を構成する島のひとつで、十字架の形をした中通島の東に浮かぶ小島・頭ヶ島にある教会。全国的にも珍しい石造りの重厚な外観に対して、内部はパステルカラーを基調に椿のモチーフがあしらわれた内装で、「花の御堂」の愛称のとおり、柔らかく優しげな雰囲気を醸し出している。
現在の石造り教会は、長崎を中心に多くのカトリック教会堂建築を手がけた、日本の「教会建築の父」鉄川与助による設計・施工。「自分たちの教会堂を」と立ち上がった貧しい信徒たちが、神父の指導の下、近隣の島でとれる石材を自ら切り出して船で運び、積み上げていった。約10年の歳月をかけて1919年に完成した石造りのお堂には、信徒たちの思いが隠れている。

 

無人島に打ち捨てられた野首教会

中通島の北に浮かぶ野崎島は、江戸初期に開墾されたが、急な斜面が多く、田畑を耕し暮らしていくには厳しい環境で人々の暮しが根付くことはなかった。しかし18世紀末、迫害を逃れた長崎の潜伏キリシタン達が、新天地を求めて辿り着く。厳しい環境に苦労しながら野首地区を切り開いた信徒達は、密かに祈りの暮らしを続けたが、やがて信仰が認められると、「簡単には壊れない」立派な御堂を建てたいと願うようになる。わずか17世帯の信徒達が必死の思いで建てた教会堂の建築費は、現在の価値に換算すると2億円にものぼるという。しかし、生活面での苦労は計り知れず、一人、また一人と島を去り、現在では無人となってしまった島に、煉瓦造の教会堂だけがひっそりと佇んでいる。

 


見て、聞いて、学ぶ
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」
をめぐる講演会付きツアー

2018年6月、世界でも類を見ない信仰の歴史を物語る史跡の数々が「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。これを記念して、長年、九州各地のキリシタン遺産の案内を続ける、現地在住で長崎巡礼センター事務局長の入口仁志氏の講演会付きのツアーをご用意しました。厳しい弾圧の時代を乗り越えた力は何だったのか? 信仰とは何か? 潜伏とは?

 入口仁志氏(いりぐち・ひとし)
長崎市出身。長崎巡礼センター事務局長。カトリックセンターのマネジャーとして、長崎の歴史と長崎巡礼の業務を併せ持つインタープリター(翻訳者)として、日々情報を発信し続けている。

2019年3月12日(火) 開催

講演会付ツアーはこちらより

首都圏発 / 関西発


 

2018年11月発行「総合パンフレット」に掲載しています。

パンフレットをご請求ください。(デジタルパンフレットもご覧いただけます)

※写真は関西版

◎首都圏版はこちらより

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投稿:大阪発国内旅行担当