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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2011年09月01日

2011年9月 1日 旅なかま9月号 巻頭特集

〔本稿は会員誌『旅なかま』2011年9月号に掲載されたものです〕
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ナポリを見てから死ね、という決まり文句がある。黄金時代のナポリを讃えたものだ。18世紀末にナポリを訪れたゲーテは、先に深い感銘を受けたローマのことを失念してしまうほどナポリの活気に夢中になり、『イタリア紀行』(邦訳は岩波文庫にあり)の中で多くの頁を割いている。この大都市の素晴らしさを充分に理解するためにまずはあの時代を、ナポリがヨーロッパ有数の大都市であった華々しい時代を振り返ってみよう。
1734年、スペイン・ブルボン家の次男カルロがナポリ入りした。総督としてではなく独立国の王として。ナポリはもはやスペインの属国ではなくなったのである。これはナポリにとって最も華々しかった百数十年間の幕開けであった。王は啓蒙君主として様々な近代的改革を断行した。教会財産に課税したことで王国の経済は潤い、多くの王宮建設のみならず福利厚生施設を着工し、様々な産業や工芸を振興した。
イタリアで最初のオペラ座サン・カルロ劇場(ミラノのスカラ座やパリのオペラ座は約四十年後の建設)、大々的な水道工事を伴ったカセルタの王宮、孤児や障害者のための王宮よりも広大な貧民宿舎・・・カメオもプレセピオもこの時代に奨励されて特産品となった。母方のファルネーゼ家から受け継いだ古代から近世にかけての膨大な美術品は今日カポディモンテ美術館と考古学博物館の主核をなしている。ローマの市心から出土し、カルロ王の祖先にあたるローマ教皇パウルス三世が保有していた重要な古代彫刻はここにあるのだ。
そして忘れてはならないのはこの時代にエルコラーノとポンペイの発掘が着工されたということである。王は印刷所を設立し、出土品をスケッチさせて銅版画にし、ヨーロッパじゅうの親戚の王族に画集を贈呈したのだが、それが近世の建築絵画における新古典主義ブームに火をつけることになったと言っても過言ではないだろう。

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また、ブルボン朝の四人の王のもとでナポリ王国は、イタリア一の先進テクノロジーを誇った。鉄道、鉄鋼業、電話、造船、軍隊・・・だがほとんどはイタリアに併合されてから廃業となり、多くの失業者と海外への移民を輩出したのであるが。凋落してからのナポリにはご存知の通り、泥棒とピッツァとカンツォーネの町というイメージだけが残った。
だが近年再び観光地として注目されている。ポンペイのみならず、ローマ貴族あこがれの別荘地であったナポリ湾一帯は考古学の宝庫なのだが、ギリシア人の入植地として建設されたこの町もまたローマに負けないほど古い歴史をもっている。以前から町の所々にギリシア時代の市壁が顔をのぞかせていたが、旧市街の発掘が進み、今では教会や修道院の地下の古代遺跡を訪れることができるようになった。サン・ロレンツォ教会の下に下り立つとギリシア・ローマ時代の石畳があり、民家の地下にネロが歌ったローマ劇場の跡がある。また、古代の地下水道をもとにして、地上の建物をつくるため秘密の採石場となった地下深くには大きな空洞があいている。第二次大戦に際しては20万人の市民がそこを防空壕とし、戦後はゴミ捨て場になっていたのだが、近年ナポリの若者が清掃整備して探検できるようになり、新たな観光名所として名を馳せているのだ。同時に、ナポリの教会美術も修復が進み、美術史家と愛好家の度肝を抜いている。もとよりナポリはカラヴァッジョ崇拝者の重要な巡礼地であるが、絶筆『聖女ウルスラの殉教』も修復されたばかりだ。それだけではない。以前はプレセピオの展示場とみなされていたヴォメロの丘のサン・マルティーノ修道院の教会堂の修復が終わって公開されるや、バロック芸術の華をそこに見いだすことになったのである。
だから今度はじっくりと腰を据えてナポリを存分に堪能してほしい。ローマやフィレンツェに劣らない驚きと感動があるはずだ。もちろん「幸多きカンパニア」とローマ人が讃えたこの地の食べ物がとびきり美味しいことは今さら言うまでもあるまい。
小森谷 慶子(こもりや けいこ)

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本稿の写真提供について:カラヴァッジョの絶筆『聖女ウルスラの殉教』(Wikimedia Commons 提供)を除き、コメント共に全て小森谷慶子先生によるものです。

投稿:朝日インタラクティブ