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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2012年11月24日

旅なかま12月号 プリマヴェーラ・ミラノ ~ヴェルディに想いを馳せて~

〔本稿は会員誌『旅なかま』2012年12月号に掲載されたものです〕
ご新規のお客様には見本誌を無料でお送り致しますので、こちらのフォームからお申込みください。その際、「旅なかま12月号希望」とご記入下さい。なお、部数に限りがございますので、お早めにお申込みください。

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長期天気予報を見ると、この先しばらくは雨天続きらしい。
夏が終わると存分に秋を楽しむ間もなく、ミラノには雲が垂れ、暗い毎日が始まる。
市内の建物の外壁のほとんどが、沈んだ灰色である。長い雨が降り始めると、壁の色と空の色が一つになって、煉瓦色の屋根だけが霧雨に煙る中にぼんやり浮かび上がって見える。曇りガラスを通して見るような幻想的な風景で、静かでもの寂しい印象である。

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 「町がうっすらと霧に包み込まれると、心からほっとするわ」
老いた女友達が、中庭の小径を歩きながらしみじみと言う。
老齢の友人アンナと、ミラノ市内にある<ヴェルディの家>の中庭を散策している。
アンナはごく若い頃に、舞台に立ったこともある元女優である。
老いて歌手業を引退し、この︿ヴェルディの家﹀に暮らしている昔の舞台仲間を訪ねる、というアンナに付き合い、やって来た。
ヴェルディの遺言にそって、緑の美しいここには、諸事情で独りきりになった老いた音楽家たちが、寄り添うようにして静かに暮らしている。

ローマ郊外に<チネチッタ>という映画村の建設が始まった頃の話である。
当時イタリアは全体主義のただ中にあり、統帥ムッソリーニが国民の心を掴もうと、考えた政策が映画の振興だった。
芸能界での成功を夢見ていたアンナは、舞台仲間から映画村の話を聞き、ミラノにいる場合ではない、と家を飛び出した。ミラノで生まれて育ったものの、一年の半分が鈍色の空の毎日にほとほと嫌気がさしていたからである。

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ミラノの曇天に自分の将来を見るような気がして、陽光を求めて他所へ逃げ出したかったのかもしれない。
アンナは頼る先もないローマに着いてまず、ポポロ広場へと出かけていった。
ポポロ広場とスペイン階段とを結ぶ一帯は、世界各地からの訪れる人たちであふれかえる、ローマの目抜き通りである。
しかしアンナがそこへ行ったのは、広場や遺跡を見物するためではなかった。あるバールに行くのが目的だったのである。
後にしたミラノはもうすっかり冬模様だったのに、十一月のローマには、夏が置き忘れていったのではないかと思うような太陽があった。
アンナは頭上に広がる雲一つない青空を見上げて、これで自分の未来も安泰に違いない、と弾む気持ちでバールに入った。
店内は雰囲気のある年期の入った内装で、美しい布張りの小椅子や揃いのソファーが配してある。低く落とした照明のもと、品のよい木製のテーブルを挟んで座り歓談する客たちの様子は、絵画を見るようだった。

糊の利いた白い制服姿の給仕が、入り口に立つアンナをちらりと見て、
「どうぞ、こちらへ」
と、再び店の外へ案内した。
一瞬、追い出されるのかと憮然とすると、外のテーブルの椅子を引きながらその給仕は、
「舞台関係の方でいらっしゃいますね。こちらのお席がよろしいかと思います」
アンナの耳元でそう言い、にっこりした。
事情が飲み込めないまま、アンナは案内された外の席でメニューを見る。
店先には、小ぶりの円卓がいくつか並べてある。椅子は、店を背にして通りを向いて、円卓の片側だけに配置してある。
注文を終え、席から通りを見ていると、それはどんな舞台よりも興味深いのだった。
通りには、世界じゅうから集まった人々が三々五々、歩いている。
ローマの小春日和に、どの人の顔も煌めいている。日差しは強く明るいが、夏や秋のものとも違って、冬の太陽の柔らかな温かみに満ちている。イソップ寓話の『北風と太陽』は、冬のローマの太陽がモデルになったのかもしれない。
いろいろ考えながらぼんやり発泡白ワインを飲んでいると、
「相席させていただいても、よろしいでしょうか」
低い男の声がした。
いつの間にいたのだろうか。
テーブルの脇に、長身の若い男が立っている。
男は秋も深いというのに、春物のような明るいクリーム色のジャケットを羽織り、同系色のズボンに濃い茶色の革靴を合せている。
ただ者ではない、と一目でわかる華やかな気配だった。
どう返事をしていいものか躊躇していると、無言の承諾と解釈したのか、男はさっさと椅子を引き、隣の席に着いてしまった。
その一連の仕草は流れるように優雅で、アンナが思わず見とれていると、
「マリオじゃないか」
背後から声をかける男たちがいる。
後ろのテーブルにいるその男たちを振り返るようにしてマリオが雑談を始めると、目抜き通りを歩いていた何人かの若い女たちが立ち止まり、小さく叫び声を上げて、何か言い合いながらこちらを見ている。
男たちは、ローマで開演中の舞台に立つ役者たちなのだった。
騒ぐ人たちは次第に増えて、店の前に立ち止まってテーブル席を大勢の通行人たちが見物している。それまでは、アンナが座って通りを眺めて面白がっていたのに、すっかり観客席と舞台が入れ替わってしまった。
一見、他の店と何ら異なることがないその店は、舞台関係者たちが集まるサロンのような場所だったのである。

仲間との雑談を終えて、
「失礼しました。お詫びに今晩、舞台がはけた後に食事でもいかがでしょうか」
マリオは中座の無礼を言い訳にするように、アンナを誘った。
そして、アンナはその日から数十年、ミラノに戻ることはなかった。
ローマに暮らし、マリオとの子供にも恵まれ、俳優として頂点を極めた夫を立てて、自分は女優業から退いた。
日向にいるのは、しかし、いつもマリオだけだった。家庭があることを知られては人気に影がさす。正式な妻なのに、アンナはいつも日を避けて暮らした。
そしてある日、マリオはアンナの元から去っていってしまった。華々しい光を放つ、夏の太陽のような若い女優の愛人を作って。

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 どうせ日が射さないのなら、とアンナは子供を連れて生まれ故郷のミラノへと戻った。
久しぶりに町の中央にそびえ建つドゥーモの尖塔を見て、涙が溢れた。
聖堂の一番高いところに、悠々と胸を張って天を見上げる聖母がいた。濃い灰色の、いつものミラノの空を背景に、黄金の聖母像が輝いて見える。
「お帰り」
と、静かに母親から声をかけられたように思ったのである。
「あまり太陽がいっぱいだと、落ち着かないものよ」
老いたアンナは、霧がうっすらとかかり始めた中庭を見ながら言った。
どんな舞台女優よりも味わいに満ちた表情が、ミラノの鈍色の空に映えて見えた。
誰が弾くのか、ヴェルディの家の階上からは、静かなピアノの音が流れて来るのだった。

 

投稿:朝日インタラクティブ