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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2019年07月10日

カザンラク古墳の壁画に描かれたトラキア人

 

ヨーロッパ南東部に位置し、アジアとヨーロッパを結ぶ玄関口の役割を果たしているブルガリアはヨーグルトだけではなく、バラの生産国としても有名である。ブルガリア中央部にはバラの谷とよばれる一大生産地があり、そこにあるカザンラクという町では毎年春に収穫を祝う祭りが催され、多くの観光客で賑わっている。
バラの谷に惹きつけられたのは、古代の人々も同じであったようである。かつてトラキア人と呼ばれた古代民族が、今日のブルガリアを中心とする地域を自分たちの領域にしていたと、古代ギリシアの著述家が記している。また、トラキア人は葬儀のときに塚、つまり古墳を築いたという記述も確認されている。このことを証明するように、ブルガリアではバラの谷をはじめ、全国で古墳が見つかっており、その数は一万をこえるとも言われている。すべてではないにしても、少なからぬ数の古墳がトラキア人によって築かれたのだろう。

代替テキスト

バラの谷にあるカザンラク古墳は、トラキア古墳の存在を最初に世界に広めた古墳として知られているが、意外な形で発見された。古墳は町の北東部に位置している。そこに第二次世界大戦のさなか、つるはしやスコップを手にした兵士たちが現れ、防空壕をつくるため古墳の盛り土を横から掘り始めた。作業をしていた男たちは、しばらくして道具の先にかたいものが当たる手応えを感じたに違いない。図らずも墓の入口に到達したのだ。彼らはそこから墓に入り、おそらくはカンテラのような粗末な道具を手にして、息を殺しながら中の様子をうかがい、そこに照らしだされた壁画に目を見張ったことだろう。
壁画を発見したときの彼らの驚きは想像にかたくない。もしこの古墳が町の創設者の墓であるという言い伝えを当時彼らが耳にしていたら、その伝説は本当であったと信じたかもしれない。というのも、墓室に壁画が描かれた古墳はそれまでブルガリアでは知られていなかったのだ。こうして、カザンラク古墳はブルガリアで最初に考古学者によって発掘された壁画古墳となった。
古墳そのものの規模はけっして大きくない。墓は入口から順番に、前庭部、羨せん道どう、玄室の三つの区画からなっており、全長は8 m にも満たない。羨道には戦闘の場面、玄室には葬送儀礼の場面が描かれた。とりわけ、玄室の壁画はトラキア美術の高い到達点を示している。そこには宴の主役であるトラキアの男性と、男性と手を重ねあわせる女性、そして従者や侍女、馬丁の姿が写実的に描かれている。さらにその上に視線を移すと、ダイナミックに表現された二頭立ての二輪戦車による戦車競技の場面を目にすることができる。
玄室の壁画が葬儀の宴の場面をあらわしているという解釈は、歴史の父ヘロドトスが、トラキア人は葬儀の際にあらゆる種類の競技を催すと記していることからも、概ね受け入れられている。年代についても前3世紀に遡ることが確実視されている。しかし、壁画にはまだ解明されていない謎が多く残されている。たとえば、壁画の主役である男性は何者なのか。歴史的に名のある人物なのだろうか。また、王の隣に座る女性は王妃で間違いないのか。王の後ろに立つ女性はなぜほかの侍女よりも大きく描かれているのか。このように壁画に描かれた人物一つをとっても、議論は尽きることがない。
カザンラク古墳の壁画はほぼ調査時の状態のまま保存されており、1979年に世界文化遺産に登録された。オリジナルの壁画は保存の観点から建物のなかで厳重に管理されているため、一般には開放されていない。その代わり、隣に実物を忠実に再現したレプリカの施設があり、そこで復元された古墳建築と壁画を見学することができる。たとえレプリカではあっても、ここを訪れると、トラキア文化隆盛期の美術を堪能しながら、トラキア人の精神性を感じとることができるのである。

代替テキスト

←バラの谷遠景。左手にカザンラクの町が見える。右手に見えているのはコプリンカダム。ダムの底にはトラキアの王都セフトポリスが沈んでいる。

 

 

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ブルガリア・古代トラキアの遺跡を訪ねて

投稿:WEB管理担当