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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2019年05月29日

「ダ・ヴィンチ没後500年 その実像と最新ニュース(パート2)

東京造形大学教授

5月2日は、レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年の記念日でした。前号に引き続き、去る2月28日に東京・学士会館にて行われた東京造形大学教授池上英洋氏の講演「ダ・ヴィンチ没後500年 その実像と最新ニュース」から、後半の概要を掲載いたします。

 

 

\\「ダ・ヴィンチ没後500年 その実像と最新ニュース(パート1)の掲載はこちら//

 

 

◆レオナルド後半生の制作態度◆    

 

レオナルドは1452年に、ヴィンチ村の公証人の婚外子として生まれ、長じてフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業し、画家として独立します。
この頃の重要な作品として『受胎告知』『ジネヴラ・デ・ベンチ』、残念ながら着色せずに終った『東方三博士』があります。やがてミラノ公国に自ら売り込んで、宮廷付きの技師として職を得ます。ミラノでは、軍事や建築や祝婚演劇の演出など様々なニーズに応えていくことで、万能の才が開花します。

ミラノ時代があったからこそ、レオナルドはいわゆる「万能の人」になったのです。
代表的な作品は、『岩窟の聖母』、未完に終わった「スフォルツァ騎馬像」、『白テンを抱く婦人』『ベル・フェロニエール』、そして『最後の晩餐』です。『ベル・フェロニエール』『モナ・リザ』の雛形とも言えるもので、スフマート(ぼかし技法)も出来上がっています。また、赤いドレスを着ているのですが、ドレスから反射した赤い光が肌に映っていて、さすがに光学をやっている研究者というところを見せてくれています。この作品にも、スポルデロ転写法(描く板の上に下絵を載せ、輪郭線に沿って穴を開け、黒い粉をかけて下絵を板に写す方法)の跡を肉眼で見ることができます。やがてフランス軍がミラノを占領すると、ミラノの宮廷技師としての職を失い、マントヴァやヴェネツィアをまわってフィレンツェにもどります。しかし、広範な分野での研究と思索を重ねるに連れ、絵画を単独で完成させる意欲を失っていきます。ここで注目すべきは、マントヴァの女君主イザベラ・デステとの関係です。

イザベラ・デステは、以前にレオナルドがデッサンしてくれた肖像画を彩色して欲しい、自分の肖像画を描いて欲しいとしつこく催促し、いろんな人をレオナルドの工房に遣わせて様子を探ります。残されている書簡から、レオナルドの制作態度がわかります。例えば、ピエトロ・ダ・ノヴェラーラという神父がイザベラに頼まれてレオナルドを訪ねた時の報告書には、「レオナルドはまるでその日暮らしのように不規則で定まっていない日々を過ごしています。二人の弟子が手がけている肖像画に時折手を入れるほかは、彼は何もしていません。幾何学に没頭していて、絵筆を取りたがりません。」とあります。この頃、『ジョコンダ(モナ・リザ)』とかいくつかの作品には手を入れ
るものの、ほとんどの作品は弟子にやらせていて、そこに手を加える程度という制作態度だったことが良くわかります。
同じ神父が報告しています。「数学の実験で彼は描くことに気が向かず、絵筆をもつことに耐えられないのです。」 絵は描いて納めないとお金にならないし、イザベラ・デステは一宿一飯の恩の相手、しかも女君主です。その催促を無視し続けるのは、当時の画家としては異例です。こういう変わった3人の画家、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの三巨匠のお陰で、それまで一般職人と同じに思われていた画家の地位がぐっと上がり、収入も一気に上がるんです。

 

『糸巻きの聖母』はレオナルド派特有の作品のひとつです。
聖母マリアの労働の証である糸巻き棒は、先が十字架になっていますね。これは、いずれ十字架に架けられるということを暗示し、キリストは手を延ばして、自らその運命を受け入れることを示しています。主要作のひとつランズダウン版を赤外線写真で見ると、下絵には背景の左奥に建物、門、そして何人かの人物が描かれています。何が描かれていたのでしょうか。『糸巻きの聖母』はレオナルド派がたくさん残していて、シンシナティ版の背景には、生まれたばかりのイエスを取り上げてあやしているマリアとヨゼフとアンナが描かれています。この場面があるのはこの作品だけです。

最近日本にも来たバクルー版は、人物の部分はランズダウン版とよく似ていますが、背景はえらく違います。こちらも赤外線を通すと、なんと先ほどの場面が出てきます。ということは、レオナルドの下絵には、イエスを取り上げる3人の人物と門が描かれていた筈です。そうした絵をもとにこの2枚の絵が描かれたのですが、いつのまにか背景が変えられました。恐らくですが、下絵をもとに、より重要である人物を先に描き始め、その後背景を描きます。思い出していただきたいのは、弟子たちが描いている作品に時折手を入れる以外、自分では何もしないというレオナルドの制作態度です。下絵をもとに弟子たちが描きましたが、風景は、レオナルドがコントロールしている間には出来上がらなかったと見た方がいいです。風景は後に誰かが付け足したのでしょう。『糸巻きの聖母』だけで30枚以上あるのですが、ひとつひとつチェックしていくのもなかなか面白い作業です。

                                         

 

 

◆『サルバトール・ムンディ』◆

 

フランス宮廷のシャルル・ダンボワーズという人物による、通行許可証をレオナルドに与える旨の書簡が残っています。
当時ミラノはフランスの占領下で、ミラノとフィレンツェは別の国です。書簡に、「レオナルド・ダ・ヴィンチ親方は、王が望まれている1点の板絵を描かないとならないため、非常に困難ながらも許可を与えた」という一文が出てきます。
その後、レオナルドにフランスから宮廷画家のポストが与えられています。フランス王からの注文を無視して宮廷画家になるわけありませんから、この作品は仕上げられて、フランス王ルイ12世に納品されたわけです。その作品が『サルバトール・ムンディ』の可能性があります。というのも、ミラノを占領したフランスの領地にジェノヴァがあります。ここには『ジェノヴァの聖顔』があり、そのコピー、あるいはそれにインスピレーションを受けた作品を王が望んでいたことがわかっています。
ルイ12世はレオナルド贔屓で、ミラノに行った時に『最後の晩餐』を見て、「壁から引き剥がしてフランスに持って帰れないか」と言ったくらいです。

また、『ジネヴラ』『ジョコンダ』『ベル・フェロニエール』『白テン』など、基本的にレオナルドの作品は4分の3正面観で、ちょっとこちらを向いているのですが、『サルバトール・ムンディ』は例外的に真正面を向いています。個人礼拝用に注文されたものであれば、崇敬対象である画像が真正面を向いてくれた方がいいわけです。この作品はその後、アンリ4世の娘でチャールズ1世に嫁いだヘンリエッタ・マリアがイギリスに持参した筈です。チャールズ1世は処刑され、妻ヘンリエッタはフランスに亡命しましたが、『サルバトール・ムンディ』はイギリスに残り、何人もの所有者を経て、1900年にハーバート・クックという人物が購入します。この間に作品は非常に劣化し、たくさんの修復の手が加わり、どんどん原型から外れて行きます。

クックが作ったカタログに写真が載っていますが、髭が加えられて見た目が違ってしまい、レオナルドの弟子ルイーニの作、あるいはボルトラッフィオが作ったコピーではないかとされていました。クックの子孫はこれをサザビーズで競売にかけるのですけれども、落札価格はわずか45ポンド、今の金額に直すと60万円です。こんな状態だったものを、2005年、画商ロバート・サイモン氏がオークションで1万ドル、110万円相当で購入します。2013年には、ロシアのコレクターが127万ドルで買い、そして、2017年に例のクリスティーズでのオークション(4億5 , 030万ドル、508億円相当)です。この激しい値上がりは修復によるものです。
修復はそれだけ重要な鍵を握っています。『サルバトール・ムンディ』を修復したダイアン・モデスティーニ氏は、夫の故マリオ・モデスティーニ氏もイタリアの有名な修復師で、アメリカに引き抜かれて『ジネヴラ・デ・ベンチ』の修復を行った人です。それぞれが数少ないレオナルド作品を修復したという世界唯一のご夫婦です。『サルバトール・ムンディ』の修復では、後世に付けられた補強材などを取り去って本体のクルミ板を露出させましたが、状態が悪くて亀裂がすごく、しかも節がありました。第1次洗浄で上に描かれていた髭などを取りましたが、部分的にオリジナルの顔料が失せています。
赤外線写真で見ると、唇のところにスポルデロの転写跡が見られ、下絵を使って描かれたことがわかります。また、ペンティメント(描き直し)の跡がいくつも見られ、親指の位置も内側にずれていることがはっきりとわかります。様々なペンティメントが見つかることで、レオナルドのプロセスがわかります。眉毛の上には、掌紋が見られます。ぼかすために手のひらを使ったわけです。これは、明らかにレオナルドのやり方です。弟子でそういうことをする人はなく、レオナルド限定の技法なので、彼の関与が大きかったことがわかります。
ただ、先ほどの『糸巻きの聖母』で分かるように、かなり弟子にやらせて、時々口を出す程度だったことがわかっています。
しかし、修復によってこれだけ変わってしまうと、批判もあります。最初の修復を終えてから、ロシアに売りましたね。ロシアの人が同じダイアン先生に修復を依頼しました。

この第2次修復で顔つきが少し変わり、陰影が少し強くなっています。
ダイアン先生によると、最初の修復では下絵の線を重視しすぎたので変えたというのですが、有力美術誌が激しく攻撃しました。批判する人の中には、光学の専門家のレオナルドが水晶の玉に、実際には映らない手の平まで描くわけがないから、これはレオナルドの作品ではないという人もいます。

        

 

『サルバトール・ムンディ』は、レオナルドが着手し、彼主導で制作された工房作でしょう。そして、この作品がレオナルドの下絵に基づくことが確実になった一方で、彩色段階は弟子が主体となって行ったと考えられます。
レオナルド本人による転写用の下絵はその後失われたのでしょうけれども、下絵をもとに工房から派生作品が生み出された筈です。特にナポリにある作品ですが、色の違いはありますが、構図と顔つき、ポーズや衣服のデザインの細部に至るまで、『サルバトール・ムンディ』と非常に良く似ています。これが非常に忠実な模写なのか、同じ下絵から作られたものなのかによって、評価が大きく変わります。赤外線調査によって、同一の下絵によるものと断定できれば、レオナルドの下絵により、レオナルド監督下で弟子が彩色した作品が『サルバトール・ムンディ』とナポリ作品の2点に増えます。他にも帰属問題を抱えている作品がたくさんあり、今年のレオナルド没後500
年に合わせて、様々な修復や調査が進んでいます。そうした状況からも、10月からのルーヴル美術館での展覧会は、非常に重要なものになると思います。

 

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投稿:WEB管理担当