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機関誌「旅なかま」掲載記事など最新のトレンドがわかるブログ

旅のアクセント

2019年03月29日

《特集》151年目の北海道

151年目の北海道



北海道の名付け親とも呼ばれる大仕事を成し遂げた人物―松浦武四郎 画像提供:松浦武四郎記念館

 

昨年、命名百五十年の節目を迎えた北海道。かつて蝦夷地と呼ばれた未開拓の地を6回にわたり探査した男がいた。探検家として、幕府の命を受けた役人として、地形から歴史、風土や文化をさまざまな角度から記録、紹介し、北海道の名付け親とも呼ばれる大仕事を成し遂げた人物―松浦武四郎の偉業を辿り、あらためて知る北の大地。今、151年目の新しい扉をひらく。

 

二度にわたる人生の転機



日本でもっとも透明度が高い湖である摩周湖(川上郡弟子屈町)

1818(文化15)年、現在の三重県松阪市に生まれた松浦武四郎は、幼少の頃より旅に興味を抱いて育った。生家が伊勢参宮街道沿いであったことから、行き交う旅人に接する機会も多かったのだろう。16歳になった武四郎は突然江戸への一人旅を決行する。この旅をきっかけに、諸国をめぐっては、その土地の風土や文化を記録するようになった。

武四郎に最初の転機が訪れたのは20歳の頃。長崎を訪ねていた際に大病を患い、一念発起して出家、僧侶として長崎で暮らすことになる。一風変わった行動にうって出た武四郎だったが、やがてこの長崎で、彼の目を北方に向けさせるきっかけとなる知らせを耳にすることになる。

長崎で暮らし始めて5年目のある日、武四郎は、ロシアが勢力を拡大するために、蝦夷地と呼ばれる北方の地を狙っているのではという情報を得た。北方へのロシアの進出は、やがては日本の危機に発展すると危惧し、再び一念発起。未知の地であった蝦夷地を調べたい、そして広く知らしめたいと、僧侶を辞め蝦夷地に渡ることを決意した。またしても大胆な行動に出た武四郎だったが、この決意と行動が、彼の人生を大きく変えることになる二回目の転機であり、後に彼が「北海道の名付け親」とされる偉業の第一歩であったといえるだろう。武四郎が初めて蝦夷地に渡ったのは、決意から2年後の1845(弘化2)年、28歳の時であった。


宗谷岬(稚内市)

個人としての蝦夷地探査



襟裳岬(えりも町)

一個人として蝦夷地へ渡ることを試みた武四郎。松前藩の取締りによって一度は断念したこともあったが、ようやく記念すべき第一回目の蝦夷地探査を決行する。それは箱館から襟裳、釧路、そして知床岬を経由して根室まで、主に太平洋に沿って歩いたものだった。さらに翌年には、第二回蝦夷地探査として日本海沿いに北上し、宗谷から樺太、そしてオホーツク海に沿って知床岬へと達する調査を敢行。つまり二回目でほぼすべての海岸線を踏破することとなった(第三回探査では船を利用して国後、択捉に向かっている)。この三度にわたる調査記録は、『初航蝦夷日誌』(全12冊)、『再航蝦夷日誌』(全14冊)、『三航蝦夷日誌』(全8冊)としてまとめられ、江戸中の識者や志士の注目を集め、幕府や藩からも武四郎の名は広く知られるようになった。

ところで、これらの調査は先住民族であったアイヌの協力無しには成し得なかっただろう。道案内はもちろん、寝食を共にし、独自の文化と風習を育んできたアイヌ民族の生活に深く接することによって彼らの信頼を得たのだろう。日誌には、蝦夷地の地形や地名、動植物のみならず、アイヌ民族の暮らしや文化、そして松前藩による支配の実態なども詳細に記していたのである。

 

役人としての蝦夷地探査



納沙布岬(根室市)

吉田松陰をはじめ多くの志士たちと交流するようになっていた武四郎のもとに、ついに幕府から声がかかる。時は幕末の動乱期。ペリー来航やロシアの樺太侵出など、外交情勢が大きく変化する中、特に日露間外交の緊迫化にあたり蝦夷地の調査が重要な課題と考えていた幕府にとって、彼の地を熟知する武四郎は最適な人物だったに違いない。こうして武四郎は幕府のお雇い役人として再び蝦夷地に渡ることとなったのだ。


立待岬(函館市)

1856(安政3)年、39歳となった武四郎は、第四回蝦夷地探査を実施する。それは、箱館から宗谷へ北上、そして北蝦夷地(現サハリン)を訪ね、再び宗谷に戻ってオホーツク海、太平洋沿いに南下し箱館に戻るという、まさに蝦夷地を一周するものであった。翌年の第五回探査は石狩川や天塩川の河口から上流域、さらに翌々年の第六回では、再びほぼすべての海岸線を一周するとともに、日高地方の河川と十勝地方や道東の内陸部探査を敢行し、調査報告書をまとめている。
第四回調査報告
『按西扈従』・『按北扈従』・『按東扈従』(全32冊)
第五回調査報告
『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』(全23冊)
第六回調査報告
『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(全62冊)

 

蝦夷地から北加伊道へ



知床岬(斜里町)

1867(慶応3)年の大政奉還により、時代は江戸から明治へと移り変わり、明治新政府が誕生した。武四郎はそれまでの功績が評価され、新政府から「蝦夷開拓御用掛」の職を任じられる。そして1869(明治2)年に、開拓使が設置されると「開拓判官」に任命された。誰もが認める当時の蝦夷地の第一人者であった武四郎にとって、当然の職務であった。そして同年7月には、蝦夷地に代わる名称の提案を政府に行うことになり、新しい名称候補が記載された道名撰定上申書を提出する。

「北加伊道」「日高見道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」
以上の中から政府は北加伊道を取り上げ、最終的には加伊を海に置き換えて北海道と決定したとされている。北加伊道に使われているカイとは、その地で生まれた人間を表す意味であり、アイヌ民族を指す古い言葉でもあると、武四郎が現地の長老から教えられたと記していることから、北の地に住む人々への尊敬を込めて提案したと考えられている。それはつまり武四郎のアイヌ民族に対する尊敬の念に他ならない。同時に武四郎は、道名だけでなく郡名や国名(現振興局名)にも、アイヌ民族に由来する名称を提案するなど、まさに「北海道」の名付け親にふさわしい業績を残した。

蝦夷地のほぼ全地域を歩いて見聞きしたこと、その地形や動植物、そこに暮らす先住民族への思いなど、蝦夷地を熟知した武四郎だからこそ感じる全ての気持ちが込められた「北海道」。彼の功績を知らずに北海道は語れないはずである。
(構成=朝日旅行 旅と文化研究会)


神威岬(積丹町)

 

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投稿:大阪発国内旅行担当